私達は、「苦しい時の神頼み」と言うように、苦しい時、困った時に、神仏を思い出します。だけど本当は、いつでも神仏を頼っていいのです💕
苦しくない時も神頼みしよう💗
「神仏にお願いを丸なげしよう」という意味ではありません(笑) 苦しくなる前に、「常日頃から、神仏を頼りましょう」と言う意味です。
「日頃から、信仰しましょう」だと重たいので、
「日頃から、もっと神仏を頼りましょう」と提案しています💗
私は、特定の宗教に決める必要はないと思っています。勿論、これは個人の自由ですから、特定の宗教がいいと思う方は、勿論そのままで!
私は、神仏には、分け隔てなくの概念がないから、宗教という分け隔ても、無いと思うのです。
だから、私は
- キリストも
- お釈迦様も
- 弘法大師も
- 伝教大師も
- 伏見稲荷さんも
- 金刀比羅の神様も大好きなのです。
この超ランダムなラインナップを見れは、どれだけ、宗教の枠を設定していないか、おわかりいただけるのでは、ないでしょうか(笑)
宗教という枠を設定したのは、神仏ではなく、人間です。人間のルールです。神仏には、人間のような、ちっさーーーーい枠は、存在しないと私は思っています。
神仏は意地悪も、バチもあてません
以前も書きましたが、「バチがあたる」という概念も人間が設定したもので、神仏にはありません。
私には、神仏の声は聞こえないし、姿も見えないけど、その温かな愛と深い慈悲を感じることはできます。
皆さんも、度は経験があるかもしれません。
哀しい時、失敗した時、猛省した時に、神社仏閣に行って、何故か分からないけど、優しい気持ちに包まれた経験や
ダラダラしていたのに、何故か厳かな気分になった経験など、
人それぞれですが、忘れているだけで、何かしらあるのでは、ないでしょうか。
その中で、神仏にバチを当てられたり、意地悪された経験は、無いと思うのです。
と、書いてみてから
あーーーーこれは分からないかも、と思いました(笑)
愛をもって気づかせてくれる場合
この「愛の鞭」的なのは、わかり辛いかもーーー、なぜなら、人間は事象だけで、判断しがちだからです。
例えばあなたが、交通事故にあったとします。
私達は、交通事故という事象は、悪い事、バチと判断しがちです。
だけど、本当は、「もっと注意深く生きなさい」とか「命の大切さを思い出しなさい」という愛あるサインだったりするのです。
逆もあります。
例えばあなたが、高額の宝くじにあたったとします。
私達はこの事象を、ご褒美とか良き事に捉えがちです。
だけど本当は、「お金だけに囚われてはいけないのわかっているか」とか
「いつもお金が無いから、施しが出来ないと言ってるが、あるなら出来るのだな」と試されるかも しれないのです。
捉え方も、気づきも一つではなく、無限にあるから
同じ事象でも、新たな気づきを得ることも できるのです。
ただ、毎日を生きる時こそ、神仏に助けてもらおう
ほんの少しでも、こんな感覚で日常を過ごせたら
ただ日常を 生きてるだけで、
何かを学んだり、スキルを習得することもなく
私達は日々、変化し成長することができます。
だけど、時には辛い日も、 悲しい事も 迷う日もあります。そんな時には、神仏に頼っていいのです。
人間に頼ると、文句を言われたり(笑)
相手によっては、相手が疲れちゃったり(笑)するけど
神仏には、それはありません。金銭の請求もしません(笑)
なのに、
いつだって
安定した
圧倒的な
有り余る
溢れる愛なのです。
だから、安心して頼っていいのです。
だから、森林浴に行くような気分で、気軽に 神社仏閣を訪れてみてください。
きっと、都会に居ながら、清々しい気分や、癒しの気持ちを味わえると思います。
もしも分からなくても、費用も掛からないのだから、損はありません(笑)